はじまり、はじまり

フラヌール

2008年08月29日 15:36

 これは、本稿を書くためのいわゆる論考なのだ。メモといってもいい。
 だから、思考の流れが前後したり、全く違う場所に飛んだり、そんなこともありうる。
そのことをご理解いただきたい。

 いま、中心市街地、つまり鹿児島でいうと天文館の活性化が大きな問題になっている。
 が、問題になっているのは、「経済」だ。だれがどれだけ儲けるか。だれが勝って、だれが負けるか。そのために、どうやって人を集めるか。そんなことが中心になっている。天文館を含む中央地区、再開発が進む中央駅地区、谷山を中心とする鹿児島市南部地区と地区間の競争が激化し、さらに地区内での競争も激化していることが背景にある。
 だが、経済で都市の活性化は抽象化できても、具体化はできない。経済は数字という統計で都市を抽象化する。そこには具体的な都市の像は浮かび上がらない。経済には都市そのものを見据える視線がないのであるから、それは当然のことである。ということは、我々は、具体的な都市像を持たずに、「都市=天文館の活性化」を実現しようとしているのだ。活性化された天文館を「ユートピア」とするなら、経済のみでそれを実現しようとしても、「枯れ果てたユートピア」しか見えてこないのではないだろうか。

 このブログは、天文館を切り口に、諸所の膨大な言説を解析・援用しながら、物質的文化や人間の欲望、そして崩壊寸前の資本主義経済、枯れ果てようとしているユートピアへの可能性、消え去ろうとしている記憶の残滓、に囲い込まれた都市の現状を考察しようというものだ。

 「パサージュ論」とは、明らかにヴァルター・ベンヤミンの「パサージュ論」を解析・援用すべき言説概念の第一だと考えているからだ。
 エドワード・W・サイードは、主著『オリエンタリズム』の序説で次のように述べている。

〈私は、ミッシェル・フーコーの『知の考古学』および『監獄の誕生―監視と処罰』の中で説明されている言説概念の援用が、オリエンタリズムの本質を見極めるうえで有効だということに思い至った。つまり、言説としてのオリエンタリズムを検討しないかぎり(中略)その巨大な組織的規律=訓練というものを理解することは不可能なのである。〉

 私はこの「オリエンタリズム」をそのまま「パサージュ」に置き換え検討を試みるつもりである。

 「パサージュ」とは、鉄骨とアクリル(ガラス)でできた巨大な機械装置だ。我々にとってはアーケードといえば親しみがわくかもしれない。しかし、商店街にその機械装置を取り付けた瞬間、一つの規律をもった世界が現れる。その世界では「商品」という「物神」が崇められ、モードに指揮された群衆が装置の中を巡礼するのだ。

 しかし、いったい天文館とはどこなのだろうか。まず、天文館というの存在をどのように設定するか。そこからはじめたい。
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