「天文館」ってどこ?
さて、「天文館」とはいったい、どこなのか? 明確にその範囲を規定できる人は、まずいない。
鹿児島市の住所表示で見てみても、たとえば東京銀座のように「天文館~丁目~何番地」という住所は存在しない。「天文館通」という電停があり、「天文館通り」という通りがあるだけだ。
私は過去に、天文館通りの入り口に立ち、行き交う人を任意に選びアンケートをとったことがある。
「天文館とはどの範囲をいうのでしょう」
と。ここでは細かい数字は伏せるが、興味深い結果が出た。それは、世代が若くなるほど範囲が広くなり、世代が高くなるほど範囲が狭くなるということだ。
60歳代以上の人に聞くと、天文館とは、現在の天文館通りとGⅢアーケード街区を中心とした周辺部分。70歳代以上になるとさらに狭く、GⅢアーケード街区の周辺だけを天文館だという。
ところが世代が若くなると、範囲は急速に広がる。山形屋から中町、納屋通り、東千石町を経て二官橋通り周辺まで、さらに電車通りを越えて山之口町、千日町、樋之口町あたりまで範囲をひろげる。
が、それも条件付だ。主にショッピングを楽しむ女性やカップル、あるいはストリートパ・フォーマンスをするような若者にとっては、電車通りから城山側が核になる範囲となり、電車通りから反対側は歓楽街としてひろがる周縁としてとらえられている。
若い世代でも男性のみのグループや、サラリーマン層はそれとは全く逆に、電車通りから南側、GⅢアーケード街区からひろがる歓楽街を「天文館」の核だととらえる者が多かった。
だが、それは私が質問をした日その日のみの答えで、人々は「天文館」という地域を柔軟にとらえている。今日の「天文館」と明日の「天文館」では、範囲が違うのだ。今日の目的はショッピングだが、明日の目的は酒やカラオケなのだ。
ここではっきりするのは「街」は変化するということだ。時代や集まる群衆の世代、目的によって、めまぐるしく変化する。したがって「天文館」という「街」が規定された範囲として存在していると考えるのは誤りである。
「天文館」は、そこ、ここと簡単に示すことができる場所ではない。前出のサイードは、『オリエンタリズム』の序説で、イタリアの哲学者ヴィーコの言葉を引いてこう指摘している。
〈「人間は歴史をつくる」そして「人間が認識しうるのはみずからのつくったものだけである」という意見を真剣に取り上げて、それを地理にまで敷衍して当てはめてみるべきであろう。〉
誰かに「天文館とはどこか」と問うと、かならず彼は自分の頭の中にあるその場所への視線を、その時の自分の目的に沿って動かし範囲を限定するはずだ。つまり自らがつくった「天文館」を「天文館」だと指摘するのだ。
その背景には、時代と共に猛スピードで回遊性を高めてきた「天文館」の歴史がある。
関連記事