「天文館」の歴史④ 公共財としての舗装

フラヌール

2008年09月04日 10:33

〈パリのパサージュの多くは、一八二二年以降の一五年間に作られた。―(中略)―これらのパサージュは、いくつもの建物をぬってできている通路であり、ガラス屋根に覆われ、壁には大理石がはめられている。建物の所有者たちが、このような大冒険をやってみようと協同したのだ。〉

 第2回で引用した、ベンヤミン『パサージュ論』の一説だ。「建物の所有者たちが、このような大冒険をやってみようと協同したのだ」という部分に着目し、私は、当時パリの繁華街には事業主たちの協同組合的組織があったと考えた。いわば資本家の連合体だ。

(写真は現在の「天文館」のとある路地。これも「天文館」のモダニティの一側面だ)
 「天文館」でも、パリから100年遅れではあるが、同様のことが起こっていたと。「通り会」の結成だ。天文館には「天文館通り会」と「天文館新天地通り会」の2つの通り会が電車通りをはさんでできた。この通り会が最初に取り組んだのが、街路の舗装だ。つまり、当時の「天文館」は、群衆を集めることにやっきになっていたが、街路は地道のままで雨が降るとぬかるんで歩けなかったという。つまり事業主たちの商売は天候に左右されたのだ。

 前出唐鎌祐祥氏『天文館の歴史 戦前までの歩み』を見ると、「天文館」周辺で最初に舗装されたのは、電車通りと天文館通りの交差点から現在の石灯籠交差点にかけてで、それもログアスファルトとよばれる木製の舗装道路だったそうだ。1928年(昭和3年)のことだ。そしていよいよ、天文館通りの舗装工事がはじまる。以下は『天文館の歴史 戦前までの歩み』からの抜粋引用である。

〈路面舗装は盛り場の必須条件であるが、天文館通が舗装されるのは昭和六、七年ごろである。
 昭和六年に東千石町の天文館通りの舗装が行われ、引き続き山之口町の天文館通りの舗装が行われることになっていたが、なかなか実施されず、昭和七年、しびれを切らした天文館新天地通り会は舗装工事の早期着工を陳情している。〉

 この工事は経費を通り会が負担し、鹿児島市が委託工事として着工される予定だった。が、当時の市長の入院手術が理由で着工が遅れたということだった。これは、一通り会の利害である街路り舗装工事を、通り会が経費を負担し自己の事業として工事を実施するのではなく、市が委託工事として実施するというところに1つの意味が考えられる。いわゆる公共事業なのだ。このことは、繁華街というものがそこで商う事業主のものだけではなく、集まり来る群衆、つまり市民のものであり、そのために「歩きやすさ=舗装」を提供しなければならないという理屈がある。

 つまり、繁華街とは市民のための公共財なのである。このことを頭において、この先を読み進んでいただきたい。次回はアーケードの話だ。(つづく)
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