「天文館」の歴史⑤ 文化的天幕装置
パリのパサージュの成立条件を、ベンヤミンは次の通り分析する。
第一に流行品店(マガザン・ド・ヌヴォテ)の登場を指摘する。これらは百貨店の原型であり、織物取引の絶頂を背景に登場した大量の在庫を常備する店だった。第二に、鉄の機能性を理解した建築家の登場による鉄骨建設の開始だ。
街路の両側に並ぶそれぞれ独立した商店。その街路の上に鉄骨の柱とガラスでできた屋根をかける。それまで単なる街路だったものが、1つの建築物として、いや世界として成り立つ。それまでの商店の正格はがらっと変わるのだ。事業者が資金を出し合って建設したパサージュ、つまり、商店はそれまで1事業者の商店であり住まいであっただけだが、パサージュがかかった瞬間に事業主たちの協同の所有物、そしてそれらはたとえ行政からの支援がなかったとしても、事業の利益(消費者の支払った金の一部)でまかなわれたという意味で公共財となる。
(写真は夜中のはいから通り。「We Love Tenmonkan」の「We」とはだれのことだろうか)
だが、商店主たちはこの「世界」を自らのための世界と位置づける。そして自らの利益のためのファンタジーをくりひろげる。公共財であるパサージュの中で、群衆をさらに搾取するための罠に落としていく。
「あなた方が歩きやすく、選びやすく、買いやすく、そのためにパサージュをつくったのです。そしてここでは、最新の流行品をご紹介しましょう。どうぞごゆっくりお選びください」
もみ手をしながらそぞろ歩く群衆をながめる商店主たちの声が聞こえてきそうだ。
パサージュは、商品の限りない連続が、1つの商店が持つ力の何倍もの強さで、街路を歩く者の視線と商品を結びつける。ベンヤミンの「最初のガス灯が灯ったのはこれらのパサージュにおいてである」という言葉を待つまでもなく、あらゆる新しきものがパサージュに集中したことは容易に想像できる。そしてパサージュは、群衆にとって商品に託して「夢=虚構」を売りつける場となるの。
「天文館」では、どうか。
道路舗装については、先に触れた。東千石町側の天文館通りが1931年(昭和6年)、それに続いて山之口町側の天文館通り(新天地通り)が翌32年(同7年)に舗装された。が、アーケードに関していえば、実はそれに先立って建設されている。
1929年(昭和4年)12月22日付鹿児島新聞は次のように伝えている。
〈麑城唯一の盛り場天文館新天地では、麑城で初めての設備として、新天地一帯を天幕張りとし、降雨にても傘不要の便宜な設備をなし、市内通り会にその模範的建設を実現することとなった〉
パリのパサージュとは違い、鉄骨は使うもののガラスではなく天幕、いわゆる帆布を使ったものだ。「文化的天幕装置」と呼ばれたものだ。工事費は当時の金で1万円。翌年5月に完成している。「天文館」の場合、防がなければならならいのは雨だけでなく、桜島の降灰もあった。東千石町の自称「本家天文館通り」に先駆けて、「新天地通り」にアーケードがかかったことは、すでに「新天地」の方に押し寄せる群衆のほうが多かったことを物語っていたと考える方が自然だろう。
盛り場新天地を担っていたのは、パリのそれとは違い高級品を扱う流行品店ではなく、活動写真館(映画館)、飲食店、ビアホール、カフェ、そして千日市場、山之口市場、天文館市場などだ。が、どちらかといえば、群衆は映画や飲食というレジャーを求めてこの盛り場にきていたようだ。つまりわずかな時間でも日常を離れ、非日常という「夢」を買い求めにやってきたのだ。
残念ながらこの「文化的天幕装置」は、2年ほどでその役目を終える。唐鎌祐祥氏の話によると、天幕は開閉式になっていて、下からロープで操作するようになっていたそうだ。が、操作が難儀で絶えず故障が続いていたらしい。天幕は取り払われ、鉄骨だけが無残な姿をさらしていたと。
舗装同様、通り会で資金調達をしたはずだ。つまり「文化的天幕装置」も公共財だったのである。2年ほどの短期間であっても「文化的天幕装置」というアーケードで街路を覆ったことは、すでに「新天地=天文館の一部」が公共財として成立していたことを物語っている。その延長線上での舗装だったのだ。
そのことを物語る好例を唐鎌祐祥氏に聞いた。初のアーケードがかけられる8年前、つまり1921年(大正10年)ごろ、「天文館」新天地は馬車の通行が禁止されたそうだ。つまり鹿児島初の「歩行者天国」の登場だ。交通規制が敷かれ、群衆の遊歩が警察力によって保護される。さらには、混雑に拍車をかけるとして、露天の出店が禁止されている。行政の規制・保護を受けて、新天地通り会はその後の発展を遂げたのだ。まさに公共財である。
「天文館」に本格的なアーケードが登場するのは、戦後を待たなくてはならない。
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