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Posted by チェスト at

「天文館」の歴史⑩ デパートの誕生の前に

2008年10月05日

 2008年9月25日、鹿児島市にひとつの衝撃が走った。三越伊勢丹ホールディングスが傘下の三越のうち池袋(東京都豊島区)、武蔵村山(東京都武蔵村山市)、鹿児島(鹿児島市)、名取(宮城県名取市)の不採算4店舗を来春までに閉鎖する方針を正式に発表したのだ。

(写真は閉店が発表された三越鹿児島店)  続きを読む


Posted by フラヌール at 14:29Comments(0)「天文館」の歴史

「天文館」の歴史⑨ 「マガザン・ド・ヌヴォテ」と「天文館」

2008年09月25日

〈その頃は、パリ市内でも、交通が不便だったうえに、歩道も整備されていなかったから、高価な自家用馬車を有する上流階級以外は、買い物といっても、歩いていける区域に限られ、近所に一軒だけしかない店で必要最低限のものを揃えるほかはなかったからである。そのため、商店同士の競争というものはほとんどないに等しく、当然、店には客を呼び込むためのディスプレイや顧客サービスも存在していなかった。〉

 という状況の中で現れた「マガザン・ド・ヌヴォテ」(流行品店)だが、遠くから訪れる客をどのようにして誘致したのだろうか。その背景にはパリのインフラ整備が大きく関わっていた。その最大のものを「歩道の整備と乗合馬車の運行開始だろう」と鹿島氏しは指摘する。

(「電停天文館どおり」を発車する市電。たくさんの人を吐き出し、そして積んでゆく)
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Posted by フラヌール at 15:18Comments(0)「天文館」の歴史

「天文館」の歴史⑧ もう少しパリのことを

2008年09月23日

 もう少しパサージュ登場前後のパリの状況を見ておこう。
 ベンヤミンが指摘したパサージュ成立の第1条件、つまり「マガザン・ド・ヌヴォテ」(流行品店)登場前のパリの小売店の様子だ。

 『デパートを発明した夫婦』(鹿島茂 講談社現代新書)という本がある。これは、労働者階級も含めた大衆を対象とした消費装置であり、世界初のデパート「ボン・マルシェ」を創業したアリィスティッド・ブシコーとマルグリットの成功の物語を通して、大衆消費社会の成立を検討しようという労作だ。その最初の部分に「マガザン・ド・ヌヴォテ」登場前後、つまりパサージュ登場前後のパリの様子、商店の様子が述べられているので参考にしたい。

(写真は、深夜の百貨店。ショーウィンドウが別世界のように浮かび上がる)
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Posted by フラヌール at 13:13Comments(0)「天文館」の歴史

「天文館」の歴史⑦ 浮遊する人々

2008年09月12日

 1918年(大正7年)、第一次世界大戦が終わっる。一方でその年はまた、米騒動という暴動が全国にひろがった年としても記憶されている。第一次世界大戦が終わり、終戦直後に米価はいったん下落するが、大戦後の物価上昇に煽られて、急激に高騰する。これは戦後の好況で米食が都市部だけではなく農村部にもひろがったこと、さらには農村から都市部へ労働力としての人口が流入て農業の生産力が落ちたこと、そのうえ戦争により米の輸入量が落ち込んだことが大きな要因だとされている。この国で資本主義が急速に発展した年だといってもいいだろう。暴動は当然搾取される側から起こる。

(写真は「本家天文館」を主張する東千石町の道路に埋め込まれた藩政時代の天文館の様子)  続きを読む


Posted by フラヌール at 13:18Comments(0)「天文館」の歴史

「天文館」の歴史⑥ パリはどうなっていたか

2008年09月09日

 パリのパサージュは流行品店の世界で、「高級品が売られるセンターだった」とベンヤミンは述べている。だが、それから100年後の「天文館」は、確かに高級品を扱う店もあったが、「高級品が売られるセンター」というよりも、大衆=労働者が娯楽を求めて集まってくる、飲・食・楽がそろったレジャーセンターとしての性格の方が強かったと考えられる。  続きを読む


Posted by フラヌール at 16:48Comments(0)「天文館」の歴史

「天文館」の歴史⑤ 文化的天幕装置

2008年09月07日

 パリのパサージュの成立条件を、ベンヤミンは次の通り分析する。
 第一に流行品店(マガザン・ド・ヌヴォテ)の登場を指摘する。これらは百貨店の原型であり、織物取引の絶頂を背景に登場した大量の在庫を常備する店だった。第二に、鉄の機能性を理解した建築家の登場による鉄骨建設の開始だ。

 街路の両側に並ぶそれぞれ独立した商店。その街路の上に鉄骨の柱とガラスでできた屋根をかける。それまで単なる街路だったものが、1つの建築物として、いや世界として成り立つ。それまでの商店の正格はがらっと変わるのだ。事業者が資金を出し合って建設したパサージュ、つまり、商店はそれまで1事業者の商店であり住まいであっただけだが、パサージュがかかった瞬間に事業主たちの協同の所有物、そしてそれらはたとえ行政からの支援がなかったとしても、事業の利益(消費者の支払った金の一部)でまかなわれたという意味で公共財となる。

(写真は夜中のはいから通り。「We Love Tenmonkan」の「We」とはだれのことだろうか)  続きを読む


Posted by フラヌール at 13:57Comments(0)「天文館」の歴史

「天文館」の歴史④ 公共財としての舗装

2008年09月04日

〈パリのパサージュの多くは、一八二二年以降の一五年間に作られた。―(中略)―これらのパサージュは、いくつもの建物をぬってできている通路であり、ガラス屋根に覆われ、壁には大理石がはめられている。建物の所有者たちが、このような大冒険をやってみようと協同したのだ。〉

 第2回で引用した、ベンヤミン『パサージュ論』の一説だ。「建物の所有者たちが、このような大冒険をやってみようと協同したのだ」という部分に着目し、私は、当時パリの繁華街には事業主たちの協同組合的組織があったと考えた。いわば資本家の連合体だ。

(写真は現在の「天文館」のとある路地。これも「天文館」のモダニティの一側面だ)  続きを読む


Posted by フラヌール at 10:33Comments(0)「天文館」の歴史

「天文館」の歴史③ 疎外される群衆

2008年09月02日

 「天文館」での遊歩は、東京の「銀ブラ」よろしく「天ブラ」と呼ばれた。「天文館」の商店主、映画館、カフェなどの娯楽事業者、料理飲食業者、つまり事業者=資本家は、「天ブラ」を楽しむ「遊歩者」たちの視線を、消費に結び付けようとやっきになる。

 競い合うように掲げられた大きな看板、横断幕、旗、そしてアール・デコ様式をモダニズムの象徴として受け入れて建てられた映画館。「天文館」は、そこにある「商品」そのものを「夢」として膨張させ売りさばいてゆく。商店街は「夢の街」、つまり幻像があふれかえる街となったのである。

(写真は山形屋増床工事のためにつくられていた防護壁が撤去され、あらわになったアーケード。まさに「装置」と呼ぶにふさわしいカタチをしている)  続きを読む


Posted by フラヌール at 16:52Comments(0)「天文館」の歴史

「天文館」の歴史② モダニズムと「遊歩者」

2008年09月01日

 パリのパサージュの多くは、一八二二年以降の一五年間に作られた。―(中略)―これらのパサージュは、いくつもの建物をぬってできている通路であり、ガラス屋根に覆われ、壁には大理石がはめられている。建物の所有者たちが、このような大冒険をやってみようと協同したのだ。〉

 ヴァルター・ベンヤミンが、当時発行されていたの『絵入りパリ案内』の文章を引用しながら『パサージュ論』の冒頭に記した言葉だ。この言葉から、当時のパリの繁華街には、すでに建物の所有者たちの協同組合的組織があったことがうかがえる。  続きを読む


Posted by フラヌール at 17:36Comments(0)「天文館」の歴史

「天文館」の歴史① その考察の方法

2008年08月31日

 「天文館」の歴史といっても、私は、「アーケード」が出現する前夜から今日までの時間に限定して検討したい。

 藩政時代から太平洋戦争終戦にかけての、その歴史は唐鎌祐祥氏に『天文館の歴史 終戦までの歩み』(春苑堂かごしま文庫 ⑤)という労作がある。興味のある方はご一読いただきたい。  続きを読む


Posted by フラヌール at 17:01Comments(0)「天文館」の歴史

「天文館」ってどこ?

2008年08月30日

 さて、「天文館」とはいったい、どこなのか? 明確にその範囲を規定できる人は、まずいない。

 鹿児島市の住所表示で見てみても、たとえば東京銀座のように「天文館~丁目~何番地」という住所は存在しない。「天文館通」という電停があり、「天文館通り」という通りがあるだけだ。

 私は過去に、天文館通りの入り口に立ち、行き交う人を任意に選びアンケートをとったことがある。  続きを読む


Posted by フラヌール at 13:24Comments(0)序説

はじまり、はじまり

2008年08月29日

 これは、本稿を書くためのいわゆる論考なのだ。メモといってもいい。
 だから、思考の流れが前後したり、全く違う場所に飛んだり、そんなこともありうる。
そのことをご理解いただきたい。

 いま、中心市街地、つまり鹿児島でいうと天文館の活性化が大きな問題になっている。
 が、問題になっているのは、「経済」だ。だれがどれだけ儲けるか。だれが勝って、だれが負けるか。そのために、どうやって人を集めるか。そんなことが中心になっている。天文館を含む中央地区、再開発が進む中央駅地区、谷山を中心とする鹿児島市南部地区と地区間の競争が激化し、さらに地区内での競争も激化していることが背景にある。  続きを読む


Posted by フラヌール at 15:36Comments(0)序説