「天文館」の歴史⑧ もう少しパリのことを

2008年09月23日

「天文館」の歴史⑧ もう少しパリのことを もう少しパサージュ登場前後のパリの状況を見ておこう。
 ベンヤミンが指摘したパサージュ成立の第1条件、つまり「マガザン・ド・ヌヴォテ」(流行品店)登場前のパリの小売店の様子だ。

 『デパートを発明した夫婦』(鹿島茂 講談社現代新書)という本がある。これは、労働者階級も含めた大衆を対象とした消費装置であり、世界初のデパート「ボン・マルシェ」を創業したアリィスティッド・ブシコーとマルグリットの成功の物語を通して、大衆消費社会の成立を検討しようという労作だ。その最初の部分に「マガザン・ド・ヌヴォテ」登場前後、つまりパサージュ登場前後のパリの様子、商店の様子が述べられているので参考にしたい。

(写真は、深夜の百貨店。ショーウィンドウが別世界のように浮かび上がる)

〈十九世紀前半までのフランスの商店では、入店自由の原則がなかったばかりか、出店自由の原則もなかった。つまり、いったん商店の敷居を跨いだら最後、何も商品を買わずに出てくるということは許されなかったのである。おまけに、商品には値段がついていなかったから、客は、できるかぎり高く売りつけようとする商人と渡りあって、値段の交渉までしなければならなかった。〉

 買い物が非常に面倒でわずらわしい行為であったことがうかがえる。これに拍車をかけたのがパリの交通事情の悪さだったという。

〈その頃は、パリ市内でも、交通が不便だったうえに、歩道も整備されていなかったから、高価な自家用馬車を有する上流階級以外は、買い物といっても、歩いていける区域に限られ、近所に一軒だけしかない店で必要最低限のものを揃えるほかはなかったからである。そのため、商店同士の競争というものはほとんどないに等しく、当然、店には客を呼び込むためのディスプレイや顧客サービスも存在していなかった。〉

 このような状況を背景にして「マガザン・ド・ヌヴォテ」は登場する。鹿島氏によると、ヌヴォテとは、女物の布地などの流行品販売する衣料品店を意味する。それは店構えからディスプレイ、商品の陳列まですべてが従来の商店とは異なっていた。それは見た目だけではなく、商売の方法にも及んでいた。

〈商品に掛値なしの正価をつけたのだ。これにより客は、値段の交渉という大きな真理的負担から解放されることになって、のびのびとした気持ちで商品を選ぶことができるようになった〉

 「マガザン・ド・ヌヴォテ」は、大衆を、必要なものを買うという「必要の経済」から、欲しいものを品定めして買うという「欲望の経済」へと導いた入り口だった。従来の商店にはなかった開かれた大きなショーウィンドウ、あざやかなディスプレイ、そして巧みな商品陳列。「マガザン・ド・ヌヴォテ」は、大衆の浮遊する視線を商品に結びつける大切さを理解しつつあった。(つづく)


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■参考文献「デパートを発明した夫婦」鹿島茂 講談社現代新書 1076


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Posted by フラヌール at 13:13│Comments(0)「天文館」の歴史
 
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