「天文館」の歴史⑦ 浮遊する人々

2008年09月12日

「天文館」の歴史⑦ 浮遊する人々 1918年(大正7年)、第一次世界大戦が終わっる。一方でその年はまた、米騒動という暴動が全国にひろがった年としても記憶されている。第一次世界大戦が終わり、終戦直後に米価はいったん下落するが、大戦後の物価上昇に煽られて、急激に高騰する。これは戦後の好況で米食が都市部だけではなく農村部にもひろがったこと、さらには農村から都市部へ労働力としての人口が流入て農業の生産力が落ちたこと、そのうえ戦争により米の輸入量が落ち込んだことが大きな要因だとされている。この国で資本主義が急速に発展した年だといってもいいだろう。暴動は当然搾取される側から起こる。

(写真は「本家天文館」を主張する東千石町の道路に埋め込まれた藩政時代の天文館の様子)

 米騒動は富山県魚津からはじまり、全国にひろがる。最終的には全国で百万人が暴動に加わったとされている。
 そんな状況下で物価を安定させるという目的で開設されたのが「日用品供給場」で、これが公設市場の前身となる。
 鹿児島市では、1921年(大正10年)2月1日に、山下町の電車通りに公設市場が開設されている。今の市役所の本館と別館の間くらいの場所だったらしい。その利用促進のために、市電名山堀電停が設置された。食料品、日用品を廉価で販売するというので、たいそう繁盛したといわれている。それを横目で見て、民間の資本家も黙ってはいない。

 その直後、市内各所に私設市場が開設されていく。「天文館」やその周辺にも、1922年(大正11年)5月に千日市場、7月に「高見馬場市場」「新屋敷市場」、8月に「山之口市場」、そして12月には「天文館市場」と、半年の間に5カ所の市場が開設されている。
 「天文館」は「天文館の六区」に象徴されるような娯楽センター、あるいは高級品を扱うセンターとしてだけではなく、廉価で商品を販売する場としても機能していた。米騒動で先鋭になった階級意識は、「天文館」の中では解消されるのだ。

 事実、その当時はるか北のオホーツク海、カムチャッカ厳冬の海では、小林多喜二が描いた『蟹工船』(1929年発表)の中で、人間性を無視した労働搾取が行われていた。その船の中では階級意識は極限まで先鋭化し、やがて労働者たちは立ち上がる。また、細井和喜蔵『女工哀史』(1925年発表)で、「東洋のマンチェスター」と呼ばれた岡谷の紡績工場で働く女子工員の過酷な労働実体を告発している。

 大正デモクラシーによる自由主義的、民主主義的風潮のひろがりの影で、都市と農山村など地方の貧富の格差、持てる者・持たざる者の格差はひろがり、階級的意識は昭和初期にかけて確実にひろがっていく。その中で「天文館」新天地は戦前の繁栄を極めていく。王政復古から7月革命を迎えるまでのパリのパサージュとその風景は重なる。階級意識は先鋭化していくが、パサージュの中だけは別の世界だった。そこには「夢=幻想」があった。「天文館」でも、1円でも安い米を求めていた人々は、「天文館」の中にいる間だけは、日常を離れて幻想の世界に浮遊していたのではないだろうか。(つづく)


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Posted by フラヌール at 13:18│Comments(0)「天文館」の歴史
 
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