「天文館」の歴史② モダニズムと「遊歩者」

2008年09月01日

「天文館」の歴史② モダニズムと「遊歩者」 パリのパサージュの多くは、一八二二年以降の一五年間に作られた。―(中略)―これらのパサージュは、いくつもの建物をぬってできている通路であり、ガラス屋根に覆われ、壁には大理石がはめられている。建物の所有者たちが、このような大冒険をやってみようと協同したのだ。〉

 ヴァルター・ベンヤミンが、当時発行されていたの『絵入りパリ案内』の文章を引用しながら『パサージュ論』の冒頭に記した言葉だ。この言葉から、当時のパリの繁華街には、すでに建物の所有者たちの協同組合的組織があったことがうかがえる。

 日本でも同様のことが起こっていた。ただし、前回述べたとおり、1920年代以降であり、まさにパリからは100年遅れていたことになる。鹿児島でも1928年に市電が開業し、西日本一といわれたデパート、山形屋がすでに産声を上げていた。さらに、天文館通りの南側(現GⅢアーケード街区)は、映画館を中心に、カフェ、酒場、飲食店などが並んでいた。特に映画館は当時流行していたアール・デコ様式の豪華な建物が多かったという。「天文館」のモダニズム化は確実に進んでいった。

 当時の「天文館」は、天文館通りの北側には鹿児島を代表するような老舗が多く、南側(山之口町、千日町)は娯楽を中心にした新興繁華街だった。前出の唐鎌祐祥氏によると「天文館通りの北側、つまりいまの東千石町あたりの商家には、天文館の本家はこちらだという意識がかなり強かった」ようだ。

 デパートと映画館の隆盛は、「天文館」の繁栄にとって欠かせないものとなった。市電の開業で、手軽な交通手段を手に入れた人々は、休日ともなれば群衆となって「天文館」に繰り出してきた。そのほとんどが、一般庶民・労働者たちである。

 とくに天文館通りの南側の繁栄ぶりは、東京浅草六区になぞらえて「天文館の六区」と呼ばれたくらいである。映画、カフェ、飲食などは、どれをとっても実体のある「モノ」を消費するのではなく、気晴らしとしての娯楽を楽しみ、時間を消費するのである。
 この時間の消費は、何も金銭を投じて娯楽を楽しむというだけではなく、「天文館」を目的もなくブラブラ歩くことでも実現できた。群衆は、繁華街「天文館」を目指した。

 さて、「天文館」の建物の所有者たちが「通り会」をつくるのは、昭和の声を聞いてからである。これは「天文館」に限らず、市内のあちこちにそういう動きが見られた。この通り会は協同組合的組織というよりも、一定の規律の中での商売の振興を主な目的にした商店主たちの団体だったようだ。

 昭和6年の鹿児島市市街地地図(白楊舎)を見ると、天文館通は電車通りをはさんで、北側が天文館通り、南側は新天地となっている。天文館新天地通り会は、昭和3年(1928年)11月に結成されているが、先にも触れたように、本家意識の強い天文館通りの北側の街区から「天文館通り」を名乗ることを快く思われず、対立の果てに山之口町側の天文館通りは、「新天地通り」と命名されたそうだ。「新天地」はまさに、モダニズムを象徴するような言葉だ。

 そして、無声映画、カフェが全盛時代を迎えると、「天文館」を目指す群衆は一気に増える。その中には何も目的を持たない「遊歩者」も多かったにちがいない。「天文館」の隆盛、つまりモダニズム化が多くの「遊歩者」を生み出したのである。(つづく)


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